ネレッロ・マスカレーゼの長い歴史
この方式は、機械化出来ませんので大変な手作業を必要とし、従って費用が嵩みます。このため、時の流れと共により「進化した」方式のためにほぼ放棄されてしまいましたが、ネレッロ・マスカレーゼの生地、エトナでは今も尚、存続しています。シチリアの他の地域、特にここ30年間においてネレッロ・マスカレーゼが普及したパレルモやアグリジェント地方(このためネレッロ・マスカレーゼはネーロ・ダヴォラに次いでシチリアで最も多く栽培されている赤葡萄品種になりました)では、垣根仕立ての栽培方式が採用されています。ネレッロ・マスカレーゼは集中栽培と卓越した樹勢によって1ヘクタール当たり35−40トンに達することも可能ですが、品質を追求する葡萄栽培者、つまりエトナの葡萄栽培者達はこれを求めていません。
ネレッロ・マスカレーゼのような品種から偉大なワインを得るための完璧な方程式は、自然と、その現象の観察者で、その一部に組み込まれている人間との絶妙なバランスと、量生産の強迫観念からようやく解放されたワイン製造技術の進歩から得られるのです。
エトナとネレッロ・マスカレーゼ
エトナの葡萄栽培者達から愛情を込めてニュリッドゥマスカリージと呼ばれているネレッロ・マスカレーゼの歴史的位置付けは、その栽培の発起の記録が大昔に途絶えているように正確なことは分かっていません。
ただし、最近の研究によって、この赤葡萄土着品種が最初に史上に登場したのは紀元前8世紀のギリシャ人の入植時代であったことが明らかになりました。彼らはまずカラブリアの海岸に上陸し、続いてナクソス、更に紀元前728年にカターニアに到達し、シチリア島部に挿し木栽培と酒神バッカス崇拝を持ち込みました。当時、多くのギリシャ人がシチリア東部とエトナ山腹部で葡萄の木を栽培していました。故郷レスボ島から追放された女流詩人のサッフォーは、シチリアのこの地域に葡萄の木を栽培するために移住してきたと言われています。
ただし、ネレッロ・マスカレーゼがエトナ山腹に普及し始め、有名なファレルノに変わる品種として注目を集めるようになるのはローマ時代のことです。この時代にネレッロ・マスカレーゼは海とエトナ山に挟まれた狭い農地、カターニア県マスカリ平野(マスカレーゼという名称はこの地名に由来します)と、ランダッツォ及びカスティリオーネ・ディ・シチーリア一帯に最終的に根を下ろすことになります。こうしてエトナは何世紀もの間、極限の標高350−1100メートルの火山性土壌でネレッロ・マスカレーゼを受け入れ、その栽培に最も適した地質気候条件を提供してきました。
実際、ローマ帝国滅亡後、シチリア島はアラブ人(一般に考えられているようにワイン文化を粛正したわけでなく、蒸留技術の導入によってこれを低減しただけでした)、ノルマン人、ブルボン王朝と異民族によるシチリア支配が続いたにも拘わらず、ネレッロ・マスカレーゼの栽培が完全に放棄されることはなかったおかげで、その誇り高い姿がそのまま私達の世代まで受け継がれてきました。
1968年、ネレッロ・マスカレーゼはエトナロッソDOCの少なくとも80%を占めるベース品種となりました(残りの20%はネレッロ・カプッチョ種です)。またシチリアでは他にもアルカモ、コンテア・ディ・スクラファーニ、ファロ、マルサラ、サンブカ等のDOCワイン、カラブリアDOCワインではイーゾラ・ディ・カーポ・リッツートのラメツィアとサンタンナにもより低い濃度で含まれています。ネレッロ・マスカレーゼは世界のワイン製造業界において土着品種、場合によってはエトナ限界高度の土着品種として高い評価を得ています。ネレッロ・マスカレーゼのもう一つの大きな特徴は、成熟が遅いということです(大抵10月の第2週から第3週)。この葡萄の果皮からは熟成赤ワインの銘酒を醸造することが出来ます。果皮は長期間マセレーションされ、こうして赤ワインが醸造されます。
マスカリとランダッゾに挟まれたエトナ山域では、頑強に火山岩の段丘にしがみつくアルベレッロ式仕立てのネレッロ・マスカレーゼの非常に古い葡萄畑を見かけることはそう珍しいことではありません。これらの葡萄畑では葡萄の木が幾何学的に区画されずに植樹されている所もあります。これは、かつたエトナでは取り木による葡萄の木の生育が普及していたからです。枯死に近づいている木を回復するために葡萄の木の枝を地下に埋める、シチリアの方言でプルパニアとよばれる方式です。この方式によって私達は今もこうした英雄的葡萄畑に繁殖する接ぎ木のない葡萄の木々を眺めることが出来るのです。サンタマリアラナーヴェの私達の葡萄畑では、健全な環境と海抜1100メートルの標高おかげで、取り木法によって枯死した葡萄の木を幾本も再生しています。