ヴィンチェンツォ・アヴェッリーナ:葡萄畑の管理
葡萄の木は全ての生物と同様、その性質と環境が尊重されていなければその生命力を最大限に発揮することが出来ません。それ故、豊潤で健康な房を生産するためには土地固有の特徴や気候、植生に対する豊富な知識が必要不可欠です。私達はワイン畑の管理を20年以上親交がある経験豊かなヴィンチェンツォ・アヴェッリーナに任せています。彼は私達の葡萄の木(グレカニコ・ドラート同様、土着品種)から数分離れた村、マレットで生まれ、今もそこで生活しています。ナーヴェ地域とグレカニコ・ドラート種にずっと関わってきたヴィンチェンツォは、その生物学的周期や、様々な気象現象と異なる剪定に対する反応を熟知しています。
マッツォーラの愛称で親しまれ、マレットでは踊りが上手いことで有名だったサルヴァトーレ・アヴェッリーナの息子だったヴィンチェンツォは、幼少の頃から最初の収穫に参加していました。父親がコントラーダ(ナーヴェ地域)より高地にある小さな土地を所有しており、ここでは主にエトナの幾つかの地域ではその細長い形状とピンクがかった色から『コーダ・ディ・ヴォルぺ』(狐の尻尾)と呼ばれているグレカニコ・ドラート種が栽培されていました。当時、収穫の日になるとマレットの住民は必要な全ての道具と家族全員を伴い、ロバあるいは馬で村を出発しました。葡萄は今日と全く同じように手作業で収穫され、まずパナリと呼ばれる籐の籠に入れられ、その後でクフィニと呼ばれる同じく籐のもっと大きな籠に移されました。ヴィンチェンツォは私達の葡萄畑の収穫中、未だにクフィニを数個持ってきます。私達がクフィーニを測ってみたところ、現在収穫に使用されている箱6個分の容量、つまり100キログラム以上の葡萄が入ることが分かりました。
このようにして、約50年前、マッツォーラはロバに乗り、行きは1日分の食糧が詰まったパナリを積み、2つのクフィニ(それぞれのクフィニには子供が2人ずつが乗っていました)をロバの両側にそれぞれ1つずつ下げてマレットを出発していました。マッツォーラの妻は当時の女性達が皆そうであったように、収穫中、夫を助けました。2人で乗ると重過ぎるので夫と交代でロバに乗りましたが、上り坂では道程を少しでも楽にするためにロバの尾に片手を結びつけて引かせていました(『accodarsi』(後に従う)の動詞の語源はここから来ているのかもしれません)。ヴィンチェンツォは幼い頃から兄とクフィニを相乗りしていました。帰路では近所の小さな圧搾場に房を運び、槌式圧搾機で手作業で圧搾を始めました。この圧搾機は4人がかりで使用しなければなりませんでした。
それは重労働の1日でしたが皆にとってお祭りでもありました。農民文化の中で収穫の思い出が数十年の年月を経ても色褪せずに残り、今も尚、当時の喜びが生き生きと感じられることは素晴らしいことです。今日の私達の収穫も同じです。重労働と緊張の1日ですが、葡萄畑とその果実を満喫する歓びの1日でもあるのです。
ナーヴェ地方での最初の収穫から数十年が経ち、ヴィンチェンツォはその間、シチリアでも有数のワイン醸造会社で働いてきましたが、彼のナーヴェ地方への深い愛情が変わることはありませんでした。そんな訳で私達が持ってる技術と知識の幅が確実に広がったにも関わらず、ヴィンチェンツォは、妻のマリアと息子のサルヴァトーレとアントニーノに支えられながら、マッツォーラが半世紀以上前に『狐の尻尾」と呼ばれる葡萄の木から最良の恵みを得るために使っていた同じ規律と伝統を尊重しながらサンタマリアラナーヴェの葡萄畑を世話してくれるのです。ヴィンチェンツォは言います:「僕が葡萄畑でしていることは、私の父と祖父がやっていたことなんだ。房の味はあの時と変わらない」そしてヴィンチェンツォのおかげで私達の収穫は今も楽しいお祭りの日になっているのです!